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令和6年3月28日号週刊新潮に掲載された記事について

令和6年3月21日に発売された週刊新潮3月28日号28頁及び29頁にて、「幽霊公設秘書疑惑」の記事が報道されております。しかし、この記事内容は事実無根であり、当該記事で指摘された公設第二秘書は、令和4年12月から同5年8月まで、しっかりとした勤務実態を以て働いていたことをここで明らかにさせていただきます。

まず事実を端的に述べさせていただきます。

私の国会議員としての活動は、令和4年7月中旬頃から始まりました。現在の公設第一秘書の男性(以下、「A氏」と言います)は活動当初から公設第二秘書として働いて下さっていましたが、その業務量の増加に伴い、同年12月に公設第一秘書になっていただきました。A氏の妻(以下、「B氏」と言います)は、令和4年12月から同5年8月まで公設第二秘書として働いて下さり、平日は主として遠野市に在住してリモートワークで支援者の方々のリスト作成・更新作業や祝文作成などをし、土日は盛岡に在住して、上記のような作業のほか、盛岡事務所で事務作業をしたり、私の駅などへの送迎をしてもらったりしました。A氏とB氏には連携して任務を行っていただいており、A氏が多忙を極め、私の活動に随行できない時には、平日にB氏に随行してもらったこともあります。目に留まりにくい活動が中心とはいえ、公設第二秘書としてしっかり勤務実態があったことに間違いありません。公設第二秘書の方の外部での活動について数例をあげますと、令和4年12月に宮古市内を挨拶回りした際、宮古市内にある岩手県議会議員事務所に随行したり、令和5年1月に盛岡で行われたはたちの集いに参加する際の送迎をしてもらったり、令和5年7月5日、岩手県議会議員選挙立候補予定者であった方の盛岡市内で開催された100人規模の会合にて活動の記録や参加者へのご挨拶を分担してもらったりと、平日においてもリモートワークのみならず、広い岩手県を駆け巡る私を多彩な形で支える活動をしていただきました。B氏の存在は、上記の例のような対外活動時に複数の岩手県議会議員の先生方、私の後援会の会長始め複数の後援会関係の方々にも認識されており、そのような意味では公知の事実であったことも申し添えます。

令和6年3月15日に株式会社新潮社(以下、「新潮社」と言います)から取材依頼書「質問事項」をいただき、これに対して、同月18日に約5000字に及ぶ「回答書」をもって、B氏の勤務の経緯と状況について説明をさせていただきましたが、実際に記事に引用されたのはわずか48字、約1%のみでありました。B氏の勤務実態について十分な説明をしたにも関わらず、事実の否定だけをしているような印象の記事を掲載され、大変に困惑したところでございます。

そのような中、先日、地元の有権者の方から、A氏及びB氏が秘書となった経緯や活動の状況等について、記事の報道だけでなく、実際のところを説明してほしいとのお話をいただきました。私といたしまししても、承知しかねる内容の記事が掲載されている以上、週刊誌が取り上げなかった「回答書」の説明内容を含め、皆様にもご説明申し上げるべきものと考えるに至りました。

私は令和4年7月中旬頃に国会議員としての活動を始め、盛岡市と東京の議員会館に事務所をおき、活動を続けて参りました。

令和4年11月頃、活動開始当初から岩手で公設第二秘書を務めていたA氏の公秘書業務が増加し、A氏を公設第二秘書から公設第一秘書に上げる必要が出てきました。そこで、妻であるB氏に公設第二秘書になっていただき、令和4年12月から同5年8月まで岩手で活動していただきました。

B氏が活動を開始する直前の秘書の体制は、盛岡事務所には、岩手全域で支援者の方へのご挨拶回りや新規の支援者の獲得活動、あるいは私が出席できない行事への代理出席などのための外回りや、外回りの結果を反映する訪問先や支援者のリスト作成・更新、収支報告書の作成補助などを行う公設第一秘書のA氏と、事務所に内勤で電話応対、郵便物仕分け、日程調整や国政報告作成などの日常的な業務を行う私設秘書という体制でした。

B氏が公設第二秘書となった経緯は以下のとおりです。

私の選挙区は岩手県全域ですので、有権者の皆様へご挨拶回りをしてそのお声を伺い、活動のご報告をするためには、広い岩手県を、県北・沿岸・県央・県南と手分けをしなければはなりません。活動開始から数ヶ月間、外回りをする秘書はA氏のみで、マンパワーが著しく不足した状況でした。

そこで、令和4年8月末頃には、秘書として岩手県内全域の外回りをして分担していただける秘書をもう一人探すことになりました。ただ、広い岩手県の外回り業務という厳しい仕事を引き受けてくれる方を探すのは至難の技であり、数ヶ月経っても、適当な人材をみつけることができませんでした。

令和4年11月頃には、A氏自身も、外回りに時間を取られ、代理出席時の祝文作成作業が深夜に及んだり、外回り結果のリストへの反映が停滞・遅延しがちになるなど、外回り以外の必要な任務を思うようにできない状態に陥りつつあり、その状況を速やかに改善する必要性が顕著になりました。

そこで、外回りを分担していただく秘書を一人増やすことは引き続き第一の目標としつつも、そのような人材が見つかるまでの暫定措置として、A氏が思うようにできなくなってきていた外回り以外の任務をA氏と連携して分担していただく方を採用して、過剰になっていたA氏の業務負担を軽減することとしました。A氏と外回りを分担していただく方の採用をにらんで公設第二秘書のポストをあけておりましたので、暫定措置として、A氏が行っていた外回り以外の任務をA氏と連携しながら分担していただく方には、公設第二秘書としてお願いすることにしました。また、その方の勤務期間は、公設第二秘書として外回りを分担していただく方が見つかるまでの間であり、半年程度を念頭に置いておりました。

そして、様々検討しました結果、B氏に公設第二秘書をお願いできないかとの考えに至りました。A氏の妻であるため、A氏の負担になっていた外回り以外の任務を円滑に連携して的確に行うことが可能と考えられました。また、もともと、B氏は平日は遠野市内で不動産業を営んでおり、週末金曜日から日曜日までは、A氏のいる盛岡に滞在する生活を続けていましたが、遠野にいる平日はリモートワーク、週末は盛岡事務所でも任務を行うことが可能でした。さらに、B氏は車の運転もできましたので、いざというときには移動の多い私の随行や駅等への送迎もお願いできると考えました。A氏もB氏を秘書にすることに賛成していただけましたので、早速お願いしました。

実際、B氏には、様々な方法で活動してもらいました。遠野市にいる平日の間は、A氏が外回りで獲得するなどした支援者の方々のリスト作成・更新や、A氏が私の代理で出席する行事の祝文の作成などリモートワークでバックオフィスとして働いてくれました。必要があるとは土日に盛岡事務所で事務作業をしたこともあります。A氏が忙しい土日には、駅等への送迎もしてもらいましたし、A氏が多忙を極め、私の活動に随行できない時には、平日であってもB氏が予定を組み、私に随行してくれたこともあります。このような業務分担により、A氏が中心的かつ重要な任務である外回りに集中できるようになりました。外回りを分担できる方の採用が実現するまでの暫定的な体制として、当時においてはベストなものであったと考えておりました。B氏には、まさに遊軍として、その都度手薄になった任務をフレキシブルに担当していただき、大変に感謝しております。

なお、外回り任務を分担してくれる方については何名か候補者はいたものの、なかなか採用に至らずにいたのですが、令和5年4月末になって、岩手の外回り任務もお願いできる秘書の方がやっと見つかり、同5月から勤務していただけるようになりました。このような新たな秘書の方との分担により、A氏の外回り業務の負担が相当減ることが期待されました。A氏から、2,3ヶ月で新たな秘書の方に外回り業務の引き継ぎができるということでしたので、外回り業務を二人で分担できるようになった後は、A氏には分担後の外回り業務のほか、この間、暫定的にB氏が行っていた任務を以前のように担当していただくこととして、B氏には秘書を退いていただくことにしました。

B氏を雇用した経緯と事実関係は上記のとおりです。B氏は、公設第二秘書となる前は、会社勤務で事務仕事をしたり、不動産業を営んだりしており、これらで身につけたと思われる事務処理能力や状況を把握する洞察力は、まさに秘書に必要な資質であり、秘書業務に大いに役立っていたと思います。

なお、新潮社の3月28日号の記事29頁によれば、“ある地元事務所関係者は「彼女が秘書をやっていたことは全く知らない」と述べた”とありますが、まずこの「地元事務所関係者」というのが、どういう立場の方かわからない上、そもそもB氏に限らず、どなたに秘書をお願いしているかを地元で公表したことはなく、特にB氏についてはお願いする期間を半年程度と限定していたこともあり、殊更に秘書として周囲に紹介して回った事実もありません。しかも、B氏の仕事の内容は上記のとおり、平日は公設第一秘書のA氏と連携した外回り以外の任務が多く、他の秘書の方との連携はほとんどなく、また、任務遂行のスタイルもリモートワークが主であり、土日は盛岡事務所での事務作業や私の送迎、加えて、必要な際には平日でも私の随行活動をするなど、フレキシブルな働き方でした。このため、秘書をやっていただいていたことを知らない人がいても何ら不思議はありません。逆に、私自身、他の事務所にいらっしゃる秘書の方のことは、よほど頻繁にお会いするなどでない限りほとんど知りません。

また、記事の29頁で、“彼女の実家の近隣住民も「政治家の秘書をやっていたなんて初めて聞いた」と述べた”とあります。この「近隣住民の方」がどのような方なのかわかりませんが、このお一人の方の認識でB氏が公設第二秘書として働いていた実態がないなど到底言えることではありません。新潮社の地元取材の後、私自身、地元の複数の方からご連絡をいただき、同社の取材の際の受け答えを教えて下さいましたが、「(B氏が公設第二秘書として働いていることを)知っている」旨回答した方もいらっしゃれば、知らないとお答えになられた方にも、B氏と近しい関係にあるわけではなく、むしろB氏の仕事や生活について知る由もないという趣旨で「他人のことなので知らない」というような表現で回答をしたとおっしゃる方もあり、このようなことから、取材の範囲やとりまとめ方の公正性について、残念ながら疑問を感じております。

以上のとおり、令和4年12月から同5年8月まで、B氏には公設第二秘書としてしっかりと働いていただいていましたことをご説明させていただきました。

今回のことでは、地元の皆様方にも大きなご迷惑とご不安を与えてしまいまして本当に申し訳ございませんでした。今後の政治活動により皆様のお声を実現していきたいと思いますので、引き続きのご指導ご鞭撻をどうかよろしくお願い申し上げます。

令和6年3月23日

参議院議員 広瀬めぐみ